黒前神社

日立市十王町黒坂 (平成18年9月17日)

R349川原野より梨木平工芸の森の脇を通り黒坂へ向かいました。何と途中の橋が流出!。通行止めです。暫くうろうろしていると、人影のする民家があったので、道を尋ね、改めてR60から再挑戦となりました。教えて戴いた通り、ゴルフ場を過ぎると、黒前神社入口の標識が立っています。こちらが標準ルートのようです。最初は快適な舗装道路ですが、一の鳥居手前1Km程は未舗装往復一車線の道となります。ひたすら対向車が無い事を参拝前から祈りつつ進むと、やがて一の鳥居が右手に見えてきます。

かって自動車道はここまでだったのでしょうか。登山道と書かれています。現在は1.5Km程先に駐車場があります。

竪破山(たつわれさん)
久慈・多賀両郡の間にそびえる標高658mの山で、北の花園山、南の神峰山に連なり「花園花貫県立自然公園」に含まれます。慶長3年(1598)徳川氏が天下をとるまでは、常陸地方は佐竹氏が領有しており、830年頃から布教した仏教の山岳信仰の霊場のひとつでした。山内には、それら修験僧の墓が現存しています。この山は、大昔から「神の山」として崇められ山の名を「角枯山(つのかれやま)」といい、黒坂命が凱旋途中に病により亡くなった地であり、八幡太郎源義家が奥州征伐へ向かう時、戦勝祈願をした地という伝説を残しています。また、常陸国風土記では、黒坂命が土賊(洞窟を住処とする凶暴な者で罪もない人々を殺すなど悪行を重ねていた)を、野に生えていた茨棘(いばら〜とげのある低木で作った柵)で塞ぎ退治したことから「いばらき」の地名を残したと言われ、信仰と伝説の山とされています。登山道に点在する巨岩奇石は、水戸光圀翁により「三滝七奇石」としてその名がつけられています。登山道850m地点からは、ブナ原生林が育成するなど貴重な自然を残す山でもあります。
説明板より。

駐車場にあった竪破山(黒前神社)の地図はこちら。

駐車場少し手前にある参道の標識と二の鳥居。ハイキングの方はこちらの道は通らないようです。

神仏混淆の雰囲気を残しています。

もう参道と言うより、完璧登山道です。でも静かなとても良い山です。

暫く行くと不動石と書かれた大きな岩が見えて来ます。

不動様の足下より水が湧き出ています。故にこの岩が御神体となったのでしょう。出羽三山の一つ湯殿山ではお湯の出る岩が御神体でした。

烏帽子石と畳石

言われてみれば、石の右側が手形のように見えなくは無い。でも手形は7〜80Cm程もあり、源義家は6〜7mもある大男だったようです。

三の鳥居、すぐ前の弁天池。

三の鳥居

元仁王門、現在随神門と書けば良いのか。仁王様は裏側に追いやられています。

なかなか出来の良い左右大臣さんですが、出来が良いだけにかえって不気味です。

元は前側にいた仁王様。

もう山頂も近いのでこれがブナの原生林でしょうか。

八幡太郎義家が、陸奥の蝦夷の乱を鎮めるため、竪破山に登り戦勝祈願した折り、大石の前庭に陣を引いて野宿した。義家は深い眠りの中で「黒坂命」と出合い、目が覚めると、一振りの黄金づくりの刀があった。その刀を振り下ろすと大石は、びしっびしっと不気味な音を発し真っ二つに割れた。一説にはこのことにより、「竪破」の名が起こったともされている。大きさは7m×6m、周囲約20m
隠居した水戸光圀翁がこの山に登った折、「最も奇なり」と感銘し石の名をつける以前は「磐座(いわくら)」と言って、神の宿る石として、石の回りにしめ縄を張りめぐらし、みだりに石の上に上ることはできませんでした。
説明板より

帰宅後ネットで調べると、この石の上で記念写真などを撮っている輩がいます。戦後政教分離の名の下に宗教をむしろ否定する教育をしてきたせいでしょうか。

甲石並十二神将由来
甲石(かぶといし)はもと竪破和光(たつわれわこう)石という。この石の中に薬師如来がいて幾筋かの破れ目から知恵の光を出して参詣者の健康に力をあたえるといって病気平癒の為信仰され、近年は受験者が希望校に合格できるといって参詣する人もいます。正面の窟内には薬師如来の守護神の十二神将が祀られています。

かって常陸五山の一つで、天台宗の山岳信仰と深く結びついていた。その名残を留める釈迦堂。

釈迦堂から黒前神社へ。最後の171の石段。

黒前神社拝殿と石の本殿。やはり奇石の山だけに石の本殿が相応しいと思います。ところで右隅に何か見えませんか?そうです狛犬です一体だけですがしっかり残されています、拡大写真はこちら。

展望台よりの眺め

山頂とその先にある胎内石