大洗磯前神社

東茨城郡大洗町磯浜町(平成14年11月10日)

海上あるいは山上遥か遠くの「常世」から神が来訪し、村人に祝福を与える、客人(まろうど)として厚くもてなす風習があったと言われる。
海に向かって立っているこの鳥居も客人を迎える為だろうか。

二の鳥居より三の鳥居を見る

三の鳥居より眺めた海

潮風に耐えてきたのであろうか、
お姿が痛々しい。尻尾の流れが珍しい江戸狛犬。

参道狛犬としては珍しい陶器製の狛犬。
しっかり睨みをきかしています。

流石大洗、漁業の町。
浪の中を魚が泳いでいます。

岩礁上の一の鳥居

壮大な拝殿

屋根の流れが美しい本殿

摂社

祭  神:大奈母知 少比古奈命
説  明:栞によりますと、
御鎮座当神社の御創立は文徳実録の記す処によれば、斉衡三年(西暦856年)といわれて居ります。
文徳実録斉衡三年十二月戊戌(二十九日)の條に、『常陸国上言鹿島郡大洗磯前有神新降云々』、とその状を事細かに記してあります。全国に名社、大社といわれる神社が数多くありますが、当社の様に御創立の年代の明確な御社は稀であります。

御祭神と御神徳
御祭神は文徳実録に『大奈母知、少比古奈命』とありまして、大奈母知は即ち大国主命にして、日本書紀には素戔鳴尊の五世の孫と云い、古事記にはその御子神としてあります。
大国主命、大物主命、顕国玉神、葦原醜男命、八代戈神など数多の御名があり常に少彦名命と二柱相並び御出現になり、御神徳を顕されて居ります。
少彦名命は高皇産霊神の御子神と記されてあります。大国主命は国土を開拓し、殖産興業に力を尽くし人々の生活の基礎を築き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又禁厭(まじない)の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、国土の経営と民生の安定を計り、徳望高く人々は深くその恩恵を蒙って居りました。

御由緒
文徳実録の記録によれば、斉衡三年常陸国鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。『我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た』と仰せられました。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、国内が乱れて居りました。大国主神はこうした混乱を鎮め平和な国土を築く為に降臨されたのです。
即ち、大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大国主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。朝廷は国司の上奏に基づき翌天安元年八月七日官社に列せられ、次いで十月十五日には『大洗磯前薬師菩薩名神』の称号を賜りました。当時国司の上奏から八ヶ月で此の待遇に預かるという事は破格のことでありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事ができます。延喜の制当社を明神大社に列せられ東国の大社として祀田千石を領し、祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以前の御本殿格子等からも察せられます。
残念なことに永禄中、小田氏治の兵乱に際し、その難を蒙り、御社殿以下の諸建築物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。水戸藩主徳川光圀公は由緒正しき名社の荒廃を見るに忍びず、元禄三年御造営の工を起こし、次いで綱條公に至り、本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。
爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し、幕末に至りました。現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。
明治新政府が、神社制度を定めらるゝや、明治七年九月県社に指定せられ、明治十八年四月国幣中社に列せられましたが大東亜戦争終息を機に神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。神社が国家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔より永遠の未来にわたり国家と共に栄えて行くことでしょう」とあります。