大避神社

赤穂市坂越(平成14年10月5日)

 この神社は、秦河勝が創建したと言われている。聖徳太子のパトロンだったことで有名なこの男は、むかし京都にいた。中国伝来の機織りをいとなんで巨万の富を持っていた。
 また中国の音楽にも堪能だった。しかし聖徳太子に肩入れしすぎ、太子没後は蘇我入鹿の圧迫を受け、京からこの赤穂に逃げたのだという。蘇我氏も渡来系の氏族だったので、これは天皇系渡来氏族と独立系渡来氏族との抗争だったのかもしれない。
 ともあれ秦氏は赤穂にこの神社を造り、機織りと神楽をこの地に伝えたという。
 秦氏はもともと渡来系の氏族で、秦の始皇帝の血筋を汲むと称していた。ところが始皇帝の一族は、唐の時代に中国に伝来したキリスト教ネストリウス派の集団であり、またユダヤの失われた十二師族のひとつでもあるという。つまり秦河勝は、ユダヤ人だったのだ。
 そして大避神社は、かつて大闢神社と書いた。だいびゃく、つまりダビデのことである。なんと大避神社は古代キリスト教の礼拝堂だったのだ。例証はほかにもある。大避神社の向かいにある生島には秦河勝の墓と井戸がある。この井戸、やすらい井戸、と呼ばれていたという。やすらい、つまりイスラエルの意である。
つまり秦河勝は、井戸にみずからの民族を、神社にみずからの宗教をきざみこんでいたのだ。  京都には大酒神社が有るが、これも昔は秦河勝が作った広隆寺に有り、大避神社と書き、さらに昔は大闢神社だったという。その境内にもやすらい井戸と呼ばれる井戸がある。
三脚の石鳥居もある。これはユダヤの「ダビデの星」を模したものだという。さらにこの神社では京都三大奇祭のひとつである「牛祭り」というものがおこなわれる。牛の面をつけたマンダラ神というものが祭壇の前で奇妙な祭文を唱えるが、これはユダヤ人が犠牲獣を神に供えた風習のなごりだという。祭文もヘブライ語だという。
 そもそも京都の太秦はイエスを意味するヘブライ語「イシュ・マシャ」から来たものであり、秦氏の「ハタ」も、司教を意味するヘブライ語「パトリアーク」からきたものだという。

一の明神鳥居と参道

境内入り口

唐風の屋根と精緻な彫刻の有る拝殿

境内と回廊

回廊には船舶関係の
奉納額が一杯

荘厳な本殿

優しい顔の浪花うちわ狛犬。サザエの様な鬣が面白い

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