久井稲生神社

三原市久井町江木 (平成23年7月30日)

東経133度2分21.36秒、北緯34度32分18.19秒に鎮座。

この神社は、三原市の北部に位置する久井町江木、歴史民俗資料館の北西の高台に鎮座しております。南向きの参道を目指して行くと、遠くに稲荷神社らしい赤い鳥居が望める、町のシンボルのような神社となっております。

御祭神 宇迦之御魂大神・和久産巣日神・火産巣日神・弥都波能売神・大物主神
相殿 天照皇大御神

御由緒
当神社は山城伏見稲荷大明神を勧請した神社であります。
抑々稲荷大明神の当地に御鎮座の縁由を尋ねますと伏見稲荷本社の神田が当地方即ち 之荘に有ったことに起因することは古文書により明白であります。
用明天皇の御代用明元年(五八五)本社の社家奏氏が御分霊を奉持して下津三橋の上原田谷に社殿を造営して「 の伊奈利大明神」として鎮座せられ 第六十一代朱雀天皇の御代天慶元年(九三八)に現在地亀甲山に神意により還座奉斎せし地方有数の古社であります。
昭和二十一年宗教法人令により神社本庁所属であります。
古くは領主藩主の崇敬驚く弘治三年毛利元就本殿を造営し、永禄三年小早川隆景は平房實源通忠二人を奉行として社殿を造営し更に社領田拾弐町弐反神子田五町参反
及び大般若経六百巻を寄進せられ徳川時代には元禄十四年(一七〇〇)藩主浅野忠義社殿を再建させられました。
是が現在の社殿であります。
尚浅野家よりの奉納物参拝祈願等多数ありますが省略します。
明治の初期までは「稲荷」の字を用いていましたが国学的解釈により「稲生」に替字しました。
久井稲生神社公式サイト より。

神社遠景

参道。右手の坂を上ると資料館。

参道の石段

境内入口

境内

境内入口のお狐様。拡大写真はこちら。
(文政7年(1824)甲申9月吉日建立)
二番目のお狐様。拡大写真はこちら。
(慶応4年(1868)戊辰4月建立)

境内中央、堂々とした浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(寛政8年(1796)丙辰建立)

拝殿

拝殿内部

本殿


八重垣神社

冥府神社

末社
忠魂碑 羽田茂樹先生彰徳碑

神楽殿?

牛像

久井稲生神社の境内に悠然と坐る石造の牛は、伯耆国(鳥取県)の大仙市、豊後国(大分県)の浜の市とともに、日本三大牛市と称された久井の牛市の繁栄をシ ンボライズするもので、大正15年(1926)に奉納されたものである。大正8年の記録によると、その年に久井で取り引きされた牛馬は1万7千頭と記して おり、その盛況であったことを雄弁に物語っている。
 この牛市の始まりは天暦5年(951)のことといい、備後寺町(三沢市)の家畜商群兵衛が、 杭の庄(久井町)の勧左衛門に牛1頭を売り、その受け渡しを牛馬ゆかりの稲生(荷)社において行ったことによると伝える。その久井稲生は天慶元年 (938)、津村明神谷から現在地に遷座したものと社記は記しており、以後焼失再建をくりかえして、現在の社殿は元禄14年(1701)に三原城主浅野忠 吉が造営したものである。その間、毛利元就、小早川隆景、野上長門守などがその再建にあたっており、天正20年(1592)にはその再建を機に、小早川隆 景より伊予国(愛媛県)で得た大般若経(県重文)が奉納されている。社殿は平入、三間社入母屋造で、正面に千鳥破風を付し、一間の向拝は軒を唐破風とした 華やかなもので、屋根は桧皮葺(ひわだぶ)きという芸備地方に多く見られる造りである。
ひろしま文化大百科 より

杭の牛市跡(くいのうしいちあと)
 昭和41年(1966)に、県史跡に指定された杭の牛市跡は、三原市久井町内の亀甲(きっこう)山一帯に残る牛馬宿、丘の上の伯耆大仙(ほうきだいせん)神社の分霊をまつる大仙神社などを含むものである。
 久井町は、かつて備後国杭の庄といい、伯耆の大仙市、豊後浜の市と共に、日本三大市場の1つに数えられたのが杭の市であった。
 起源は、応和(おうわ)3年(963)9月23日と伝えられ、牛馬市として栄えた。その理由は牛馬産地の中国山地を控え、内陸の中心地で、尾道、三原などを通して、関西の消費地につながっており、牛の買い手、売り手共に便利な位置にあった。
 しかも、天慶(てんぎょう)元年(938)に創建されたと伝えられる稲荷(いなり)神社の境内とその周辺は、信仰に篤い人々が集まり、牛馬の取り引きを一層活発にした。杭の市に通ずる道は「稲荷道」と呼ばれ、道は市に集中していた。
 神社の東の丘の上には、牛の守護神大仙神社があり、地元の人は「大仙大明神」と呼んでいる。
 牛市には山陰、山陽はもとより、四国、九州、大坂方面から牛馬や人々が集まった。
ひろしま文化大百科 より

境内より見る久井町の町並み