鶴羽根神社

広島市東区二葉の里2-5-11 (平成23年7月27日)

東経132度28分26.44秒、北緯34度24分3.04秒に鎮座。

この神社は、広島駅の北西800m程の辺り、標高139mの二葉山南西に鎮座しております。二葉山を背景に広い社地を持つ落ち着いた景色の良い神社です。

御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命・帯中津日子命・品陀和気命・息長帯比賣命

鶴羽根神社由緒
當社の儀建久年間(1190〜1191)「源三位頼政の室菖蒲の前」安芸国加茂郡西條の郷を領し、没後其の遺言により元久年間(1204〜1206)家臣池田左衛門社殿を建立し御祭神を勧請す。修理料として椎木山(二葉山)の寄附ありて椎木八幡宮と稱し、池田氏神主職となれり。元享年間(1321〜1324)回禄(火事)に罹り再建されしも兵亂により漸々衰廃に及び小社となり、萬冶二年の頃、同裔丹後守の時世に至り家名断絶し、二年の間奉仕の者なく、明星院の守護を蒙り終に鎮守となる。其の後、寛文元年同院は野上監物を以って當社の祠官に差置。此者氏子中勧進せしめ、社殿を造立し代々祠官たりしが、文政五年(1822)六代目同裔美濃守退転し、以て同七年、石井眞澄祠官となる。天保四年(1833)二月明星院鎮国堂より出火。悉く類焼し同年四月、假社殿落成御遷座ありしも同社域に藩主より饒津神社造営を仰せ出されし為、同六年四月、現在の地に所替にと相成り、旧藩主浅野家より造営の寄附をはじめ、氏子中の勧進により同十四年九月地鎮祭。安政三年(1856)五月上棟祭斎行再建全く成就す。因に元は饒津神社一の鳥居と二の鳥居の中間西側にありしなり。明治元年十二月、神仏混淆御引分。明星院鎮守の儀は差止められ、浅野長勲公の撰名により鶴羽根八幡宮と改め、同五年十一月鶴羽根神社と改稱し、広島東部総氏神として村社に列せらる。昭和二十年八月、原爆により社殿一切倒壊せしも消失を免れ、石の太鼓橋、境内の松、石鳥居、唐獅子、石燈籠は無事残れり。現在の御神殿、拝殿、社務所は戦後の困難の中、石井博光宮司の先導と氏子各位の熱烈なる協賛により其の規模は縮小されしも再建せられ現在至る。尚昭和の御代になり伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神を奉斎し、御神徳を敬慕し神前結婚式を広め、挙式等に関する総ての設備を完備せしは當社を以て濫觴となす。

鎌倉時代、二葉山山麓に建立された椎の木八幡宮がその前身といわれて、江戸初期に明星院の鎮守社となった。天保6年(1835)に現在地に移り、社殿を再興した。明治元年(1868)に明星院より独立し、その後、鶴羽根八幡宮、ついで鶴羽根神社と名を改めた。その由来は、二葉山があたかも羽根を広げた鶴に似ていることで名付けたといわれている。

嘗ては八幡宮であったようです。御祭神の伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神々は神前結婚挙式の為勧請されたと思われます。由緒書き等の原文はこちら。

神社入り口。後右手が二葉山。

一の鳥居と社号標

神橋

参道左右の石燈籠

境内

参道の浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和15年(紀元2600年 1940)建立)

二の鳥居

拝殿


地主大明神・椎木稲荷大明神・八十吉大明神

弁財天

絵馬

山縣豊太郎(やまがたとよたろう)銅像

出生:1898(明治31)年、広島市京橋町山縣家の三男として誕生。入校:1915(大正4)年、伊藤飛行機研究所(千葉県)が開校され第1期生として入校、1917(大正6)年に首席卒業。活躍:1919(大正8)年5月5日東京遷都50周年祝賀行事の日、愛機鶴羽2号に搭乗、大観衆の見上げる上野上空に見事宙返りを敢行、日本航空史に輝く「民間人初の宙返り」を達成した、また特筆される快挙として、翌1920(大正9)年4月東京〜大阪間往復無着陸飛行大会に優勝、そのほか数々の飛行記録を樹立、「民間航空界の鳥人山縣時代」を到来させた。殉職:1920(大正9)年8月千葉県(鷺沼の畑)上空で連続(3回)宙返りを実行中、右上翼が空中分解、キリモミ墜落し、惜しまれる22歳の若き生命を空に殉じた。神葬祭:於東京青山斎場、大隈重信日本航空協会会長をはじめ国内航空関係者多数が参列し故人の業績を偲んだ。