尾崎神社

広島市安芸区矢野西5-5-39 (平成23年7月28日)

東経132度32分11.97秒、北緯34度20分56.23秒に鎮座。

この神社は、JR呉線・矢野駅の東200m程の辺り、小高い丘の北外れに鎮座しております。

祭神 中座 應神天皇・左座 神功皇后・右座 玉依姫命

文明二年(1470)三月矢野郷發喜城主第四世野間興勝は神官香川勝重と謀り玉依八幡宮の神霊を産土神として奉遷し尾崎八幡宮を造営す。
八幡宮と稱するは應神天皇筑紫の國宇美に於て八幡八旗を廻らしたる中央産殿にて神功皇后を生母として降誕ありしに因みて名付けられたるものと申し傳う。
爾来毛利氏、福島氏、浅野氏の時代に於て幾多の興替ありたるも恒に上下の尊崇は厚く茲に五百十余年の星霜を累ねたり。
勝重より十一代香川将監正直は学徳高く衆望特に篤し。延享四年(1747)二十七歳にして社倉法を創建し藩主浅野氏の協力を得て芸備二州八百十四ヶ村の窮民救済に精魂を傾け備荒貯穀の制度を確立す。文政元年(1818)に至りては蓄積食糧七万余石に達し芸藩領民の恩恵を受くるもの無数にしてその恩澤は明治維新に至るまで百三十余年に及ぶ。これを以て神威愈々輝き藩主浅野氏は家紋の鷹の羽を献納し社格を芸備社倉総鎮守に進め多くの殊遇を受く。氏子の尊崇亦倍々厚し。
明治初年郷社に列し、大正五年将監の勲積を録し贈正五位のご沙汰を拝し次いで縣社に昇格す。神徳無窮に輝き併て世界の平和を萬民の幸福を祈念するものなり。
境内由緒書き より

参道入り口

入口より見上げる神社

一の鳥居より見る参道

社号標 社倉総鎮守の碑
社倉
中国や朝鮮,日本で凶年など非常のときに窮境を救うための米などを貯蔵しておく米倉。隋代にはじまった義倉は村鎮に設置され,無償で配給されたが,管理は一種の自治団体である社が行ったので,別に社倉と呼ばれた。宋代になって最も発達し,村落が管理する社倉と州県官が管理する義倉とがはっきり区別された。困窮農民の救済を目的とした社倉は,南宋時代になって朱熹(子)の社倉法に代表されるように極盛期を迎えた。常平倉の官米を農民に分配し,秋に2割の利息をつけて返還させ,これを社倉に貯蔵して以後,独立運営を行い,夏に穀物を貧農に貸し冬に回収した。
コトバンク より

参道と二の鳥居

参道の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。
台座には「丁丑孟春」とだけ
彫られています。
丁丑、旧暦正月の奉納だと言う事しか
分かりません。
文化14年(1817)
明治10年(1877)
昭和12年(1937)
以上三つが候補となりますが、
年号が無いので江戸時代か?
しかしそんなに古そうには見えず、
明治10年かとも思われます。

境内。左手は社務所。

三の鳥居

禿げ親父の様な顔ですが、実に堂々としています。拡大写真はこちら。
(昭和18年(1943)3月建立)
昭和18年といえば大東亜戦争の最中、戦勝祈願と思われます。山本五十六大将が米軍機の攻撃を受け
戦死した年です。よくこれだけの狛犬が作れたと思います。

参道最後の石段

派手な尻尾を持っています。出雲構えと愛媛の尻尾が合体したか。拡大写真はこちら。
(文政3年(1820)庚辰8月吉日建立)

拝殿

拝殿内部

本殿


若宮

芸備十六郡代官一同寄進の石燈籠