倉賀野神社

高崎市倉賀野町1263 (平成23年10月2日)

東経139度2分46.86秒、北緯36度17分34.92秒に鎮座。

【神社情報・源夢さんより】
JR八高線・倉賀野駅の南西600m程の辺り、倉賀野の街中に鎮座しております。

榛名神社に祀られている『満行権現』の八人の息子達に関する伝説で、上野国西半分に跨るスケールの話です。満行は高崎市本郷町の『榛名木戸神社』その西側の神戸(ごうど)にある『戸榛名神社』さらに箕輪にある『榛名若御子神社』に祀られています。

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倉賀野神社の由来
「倉賀野神社はその名のとおり倉賀野町の総鎮守である。倉賀野神社は大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)を主神としてまつる神社で、久しく国玉(くにたま)さまと呼んでいたらしい。
国玉さまは同時に大国魂大神の御霊代(みたましろ)である神宝亀形の自然石のことである。この宝石は崇神(すじん)天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が東国経営の際、この地に斎場を設け、御霊代としてまつったものとして伝えられている。
雨乞い(あまごい)の神事にはこの霊石に祈るので、雨乞石ともいわれている。長さ二十センチ幅十二・三センチ、厚さ七センチの緑がかった自然石である。
ここにこの自然石をまつられたというのは、崇神天皇の四十八年九月十九日ということなので、約二千年前ということになる。宮原という地名の起こりはここにあると考えられる。
社宝に、古色蒼然たる翁面(おきなめん)がある。これは大同二年(807)九月、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が社殿造営の際、舞楽(ぶがく)を奏上したときのものだという。
もう一つ、慶応三年(1867)奉献の和算額がある。当地の数学者鈴木角右衛門勝森らが奉献したものである。」―「高崎の名所と伝説」より―
ここに述べられている大和時代〜平安時代初めは倉賀野のいわば草創発展期にあたり、やがて鎌倉時代はじめの倉賀野三郎高俊(約700年前)を祖とする倉賀野城興亡の戦乱期に入る。
江戸時代になって倉賀野河岸(かし)が開かれると倉賀野宿の全盛期を迎え、倉賀野神社は近隣七ヶ郷の総鎮守、飯玉様(いいだまさま)として信仰をあつめ、嘉永六年(1853)より現在の御本殿造営が始まるのである。

飯玉縁起
光仁天皇(771〜780)の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代職をたまわるようになった。ところが兄たちは八郎を夜討にして、鳥啄池の岩屋に押しこめた。三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで喰い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
やがて、小幡権守宗岡が贄番に当たる年、十六才の娘海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩を称名。琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。烏川の辺へ移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。これが「飯玉縁起のあらすじである。
この話は、十四世紀半ばに編さんされた神仏習合を説く縁起物語集『神道集』巻八所載「上野国那波八郎大明神事」によく似通っているので有名である。「飯玉縁起」一巻は、江戸初期の寛文十二年(1672)すでに存在していたとされる伝来の社宝であり、唱導文芸『神道集』の研究にとっても欠かせない貴重な史料である。
そして、今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴をかなでる彫刻が、見られるのは興味深い。社殿の彫刻が、祀る神の伝承縁起を物語っているということ自体が、全く珍しいからである。―(彫師は北村喜代松・石川兼次郎)―
なお、この「飯玉縁起」は『神道大系』(神社篇二十五)に収載されている。

境内由緒書はこちら。  倉賀野神社公式サイトはこちら。

神社入口

社号標

拝殿

向拝の彫刻。拡大写真はこちら。

拝殿前の岡崎型狛犬

神額(倉賀野神社・飯玉大明神)

本殿

後方より

冠稲荷

「常夜灯、玉垣と倉賀野宿」
中町下町境にある太鼓橋は享和二年(1802)宿内の旅籠屋、飯盛女たちが二百両も出し合って石橋にかけ替えたものである。
その飯盛女たちの信仰を集めたのが横町の三光寺稲荷(=冠稲荷)であるが、社寺廃合令により明治四十二年(1909)倉賀野神社に合併された。
社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて行き、常夜灯と玉垣は、倉賀野神社と養報寺に移されて残っている。
天保時代(1830〜1843)倉賀野神社は旅籠屋が三十二軒もあり、高崎宿の十五軒を上回るにぎわいを見せていた。
本社前の常夜灯は文久三年(1863)「三国屋つね」が寄進したもの。玉垣にも「金沢屋内りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やす、ふじ」「新屋奈美」など数多く刻まれている。
また、元紺屋町の「糀屋藤治郎」、田町の「桐屋三右衛門」ほか高崎宿の名ある商家、職人も見える。
倉賀野河岸と共に宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛女たちの深い信仰とやるせない哀歓を物語る貴重な石造文化財である。
(狂歌)「乗りこころよさそふにこそ見ゆるなれ 馬のくらがのしゅくのめしもり」― 十返舎一九 ―

甲子大黒天

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神饌田

神楽殿

庚申塔

橘物語