邑楽郡邑楽町秋妻1047の1(平成18年10月12日)
狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、赤岩足利線を北上し、栃木県との県境付近、右側です。真新しい社殿は、平成17年に新築されました。狛犬は平成12年です。水盤には、文政6年の文字が見えます。境内の稲荷神社には、狐の置き物がたくさんありました。
玉取神社新築記念碑の由来には
「御祭神:天児屋根命
創立は天長2年(825)父民部介藤原信綱が所領していたこの地を開いて、藤原綱義(大栄師)が天児屋根命を祀り、建立しました。祖先の鎌足公が房崎の浦で竜宮から玉を取り得て日本の宝としたので、鎌足公を玉取明神として崇敬したという伝説に由来し、勧請したのです。天長3年(826)秋妻に悪病が流行し多くの人が亡くなった時、大栄師は三日三晩の苦行を行い悪病を払いました。それより根本院などの四院と玉取・稲荷・明神の三社を立て、仏道興隆に努めました。(抜粋)」とあります。
この竜宮の玉「面向不背の玉」については、先年妹の供養のためにと、四国霊場八十八ヶ所巡りのお遍路をした時に、さぬき市の第86番札所・補陀洛山志度寺に海女の墓と伝えられている五輪塔があり、説明板に余りに哀しい物語が書かれていたので、良く覚えています。
「その昔、唐に嫁いだ藤原鎌足の息女白光は亡き父の供養物として数々の宝物を兄の藤原不比等に届けようとしました。ところが、宝物を積んだ船が志度の浦にさしかかったとたん嵐が起こり、中国に二つとなき宝物「面向不背の玉」が龍神に奪われてしまったのです。不比等はこの玉を取り戻そうと、身分を隠して志度の浦へやってきました。ここで漁師の娘であった海女と恋に落ちたのです。”房前”という男の子も授かり親子三人で幸せに暮らしていました。しかし、不比等が志度の浦に来た理由を知った海女は、愛する夫のために玉を取り戻そうと死を覚悟で竜宮へ潜っていったのです。海上で待つことしばし。海女の合図で命綱をたぐった不比等の前に現れたのは、見るも無惨な海女の姿でした。海女は間もなく、不比等に抱かれたまま果ててしまいました。しかし、玉は海女の命に代えて縦横に切った乳房の中に隠されていたのです。
その後、玉は奈良の興福寺に納められました。藤原家を継ぎ大臣にまで出世した房前は、やがて志度寺を訪れ千基の石塔を建立、小堂を大きな堂塔に建て替え、さらに法華八講を修めて、亡き母の菩提を弔ったということです。この「玉取り」にちなんで志度の浦は玉浦と呼ばれています。」(さぬき市観光ガイドより)