桐生天満宮

桐生市天神町 (平成21年6月12日)

東経139度20分58.43秒、北緯36度25分8.39秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、桐生田沼線(66号線)を田沼方面に向かい、群馬大の手前左側です。嘉永5年の狛犬が迎えてくれました。本殿、幣殿、拝殿は県指定重要文化財で、特に本殿、幣殿の彫刻が見事です。本殿裏の末社、春日社は建築年代が天正から慶長年間と推定され、桐生市内最古の建造物です。

桐生天満宮の御祭神と御神徳
天穂日命(産業開発の神)家内安全・商売繁盛・交通安全
菅原道真公(学問・厄除方位除の神)学業受験合格・厄除方位除・渡航安全
祓戸四柱大神(災難事故・病気除の神)災難除・事故除・病気除
境内御祭神の説明より。

今からおよそ1800年前の景行天皇の時代に上毛野国造が土師部の遠祖である天穂日命を磯部の岡に奉斎した磯部明神が当宮の起源です。
 その後幾多の星霜を経て、文治三年(1187年)から当地を支配した桐生家が代々の守護神として崇敬し、観応年間(1350年頃)には京都北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称し、桐生領五十四ヶ村の総鎮守と定められました。天正九年(1581年)に徳川家康公が東征の祈りには徳川家累代祈願所として朱印領を賜わりました。天正十九年(1591年)より徳川家の支配下となり、当宮の鳥居前には新たに「桐生新町」が形成され、鳥居から南へ向かって日本で最初の丁割りに基づく桐生の街並みが整えられました。
 慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦の折には軍旗に用いる絹織物を社殿に献上して戦勝祈願を行い、その勝利凱旋を吉例として境内に織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となりました。
由緒書より。

当宮の起源は、第十二代の景行天皇の時代に、上毛野国造が天穂日命を奉斎した磯部明神であり、その後幾多の星霜を経て、文治三 (一、一八七)年から当地を支配した桐生家が代々の守護神として崇敬し、観応年間(一、三五〇年頃)には、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められました。
桐生天満宮公式サイトより。

現在の桐生市街は、桐生天満宮を基点として成立しており、天満宮鳥居前が本町一丁目となっている。桐生市は多くの高校が存在するため、受験シーズンには多くの参拝者が訪れる。また、天満宮の近くに群馬大学工学部や桐生工業高等学校があり、緑の多い静かな環境となっている。
社伝では景行天皇の時代(71年〜130年)に天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられ、当初は礒部明神といった。南北朝時代初期に桐生綱元(桐生氏の祖)が現在の所在地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となった。江戸時代には徳川家の祈願所となっていた。現在の社殿は1789年に建造されたものである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

参道入り口と一の鳥居

参道

二の鳥居と神橋

拝殿

優雅な江戸狛犬です。拡大写真はこちら。

(嘉永5年(1852)建立)

本殿。社殿の説明と拡大写真はこちら。

神楽殿

天満宮は、天正十九年(一五九一)に、久方村梅原から赤城の森(現在地)へ遷され、荒戸新町(のちの桐生新町)の起点となった神社であり、旧桐生領五十四箇村の総鎮守格であった。
末社春日社は、本殿の後方に南面して建つもので、一間社流造りの小規模な社殿である。
社殿は、身舎、庇の軒桁や垂木に見られる反り増しをはじめ、要所に用いられている彫刻の装飾に、室町時代後期の建物の特徴をよく残している。一部に菊と唐草・流れに紅葉などの文様が描かれてあり、各部には彩色が施されていた痕跡が見られるが、ほとんどは不明である。
県内における類似する建物としては、板倉町の雷電社末社稲荷社社殿があり、象鼻彫刻が発生した早期の建築と考えられる。
このことから、建築年代は天正(一五七三)から慶長(一六一五)年間と推定され、現存する桐生市内の建造物としては、最古のものであるとともに、当地方における古建築の遺例として貴重である。
桐生市教育委員会

桐生最古織物市場發祥地・機神々社

神道七福神総社・宝船神社

財福稲荷

神明宮・??神社

石祠