鳥頭神社

吾妻郡東吾妻町矢倉899(平成22年7月11日)

東経138度47分23.35秒、北緯36度32分54.91秒に鎮座。

 この神社は吾妻線・矢倉駅の東南東約200mに、145号線に面して鎮座しています。社頭には外側が屋根を付けた樹皮だけの筒型の大杉と、その中に植樹され育った樹齢200年の子杉が独特の景観を見せている神代杉が、やや痛々しく、けれど誇らしげに聳えています。その奥に朱色の根巻き鳥居が立ち、杉の並木の中を参道が続きます。周囲を取り巻くように聳える杉の木々の中に、広々とした上の境内が作られ、左に神楽殿、やや右よりに大きな拝殿・本殿覆い屋が建立されています。その他、力石・神武天皇遥拝所・末社などが参道・境内に点在しています。静かで自然と一体になった参拝が出来、神代杉の印象が強い神社でした。

 御祭神:大穴牟遅神、・宇迦之御魂神、・倭健命、・建御名方命
 祭礼日:春季大祭・4月吉日、秋季大祭・11月吉日、茅の輪祭・7月吉日
 由緒:創建年月不詳、伝承によると吾妻七社の一社で建久年中(1190)の建立と伝えられている。古末武将、郷民の信仰が厚く、元享年間(1321)岩櫃城主吾妻太郎行盛が社殿を改修したという。
 延文3年(1351)京都安居院で編集された「神道集」によると、父が加若和利 母・子持御前の御子 とっき東宮を祭った神と記されている。叔父藤原成次は元上野国目代で、この地に住居し中世は吾妻荘西条岩下村と称した。
 戦国末期は岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け、永禄6年(1578)10月斉藤氏滅亡後、同9年海野幸光同輝幸は信玄の吾妻領の郡代となり、天正6年(1578)海野長門の守幸光は武田勝頼に忠誠を顕すため、鰐口を奉納したが、その後盗難により現存しない。天正10年(1582)真田昌幸より八貫七百文の寄進を受け社殿を修復、同18年8月真田信幸沼田入部に際し三貫五百文の寄進を受けた。沼田真氏改易の後、貞享4年(1683)検地には境内一反五畝余、森一反とあり、元禄7年(1694)11月京都卜部兼連より正一位鳥頭大明神の宣旨を賜った。宝暦週11年(1761)本社建替着工、明和元年(1764)9月完成した。なお宝暦13年(1763)まで正一位正一位鳥頭大明神と称した。
 明治10年7月相殿二座を合祀、同40年8月境内末社等を合祀した。(境内由緒書きより)

 吾妻七社とは児持七社ともいい、児持山大明神・半手木(破敵)大明神・鳥頭大明神・和理大明神・山代大明神・駒形大明神・白専女大明神の七社を指します。
 又、例祭には太々神楽が奉納されます。

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社頭
神代杉
樹齢1400年。現在周囲9.75m余ありますが、氏子さん達が代々に亘り修復を重ね、今にその姿を伝えています。虚内にある杉は約200年前に何度か植栽され苦労の末に根付いた木で、一名親子杉とも呼ばれるこの神代杉の名声を天下に広めた由縁です。
神社入口
入口に立つ根巻鳥居
参道の様子
中境内への石段参道
中境内と上境内への石段参道
境内の様子
拝殿
本殿覆い屋と本殿
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幣拝殿脇に飾られた鬼瓦 神楽殿
援田毘古大神 末社
神武天皇遥拝所 力石

境内に聳える大杉