土津神社

耶麻郡猪苗代町字見祢山3(平成16年7月18日)

保科正之公墳墓
 会津藩初代藩主保科正之公は寛文12年(1672)12月18日江戸において、62歳で亡くなられた。正之公は「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていたので、二代藩主正経は遺言どおり墳墓の造営にあたった。
 最初南北60間東西50間を整地し、その中央に小屋を建て棺を安置し、その周囲南北32間に柵を作り四方に鳥居を立て、3月26、27の両日にわたって葬儀をとり行った。その後棺の所に円墳を築き頂上に「土津神墳鎮石」と刻んだ八角形の鎮石を建てた。
    (猪苗代町教育委員会)

 会津初代藩主保科正之公の履歴を刻んだ石碑で、碑文は山崎闇斎が撰文し、字数は1943、筆者は当時第一等の能筆家土佐左兵衛高庸である。
 神社の碑石としては日本最大のもので石柱の高さ一丈八尺、幅六尺、厚さ五尺余、土台の亀石は長さ一丈六尺、幅一丈一尺三寸、厚さ二尺五寸で、竿石は八田野(河東町)、亀石は猪苗代町土町の東から取り出した。
 伝説によると、初め亀石は南向きに置かれたが、眼下には猪苗代湖が見え、亀は一夜のうちに湖まで這い出してしまった。そのため亀を北向きにしたところ、二度と這い出すこはなかったという。
 亀は中国伝来の瑞獣の一つで、松平家の将来の繁栄を祈願したものと考えられる。
                 (猪苗代町教育委員会)

 正之公は子孫の繁栄のみを祈願したのだろうか、むしろここ会津は江戸の北に当るので北方の守護聖獣玄武を置き自ら徳川家を守ろうとしのではないか。
かすかなる 仁はまことの 種なるを 心に植て 身にそたてけり
 正之公の詠んだ歌です。因みに保科正之は、徳川二代将軍秀忠の子として慶長十六年(1611)に生まれ、高遠藩から最上藩を経て寛永二十年(1643)に会津藩へ入封しました。慶安四年(1651)三代将軍家光が亡くなると、幼少の将軍家綱の後見役として、幕府の政事に携わりました。


由緒
 土津神社の御祭神である土津霊神・保科正之公は、二代将軍徳川秀忠の第四子、三代将軍家光の弟で、高遠藩藩主・保科正光の養子であり、寛永ニ十年(1643)会津に封ぜられ会津松平家の始祖となった。 晩年にいたるまで神道を尊信し、吉川惟足を師として専らト部家神道の伝を学び、道の奥義を極められた。 寛文十一年(1671)公は惟足から霊号を「土津」と奉られた。土津の意は、惟足によると、土(つち、はに)は宇宙構成要素の根元であり、万物の始めと終りであり、信実の主体である。その道理を公は体得された。また公は会津の領主であるから「津」の字に無関係ではない。故にこのニつから「土津」と申し上げたといっている。言い替えれば、宇宙の万里を究められた会津藩主の意といってもよいのである 公は、この時、「余の没後は神道の礼をもって磐椅神社の神地に葬ってもらいたい」という遺書を老臣たちに与えて、御子・正経公に伝えさせた。 寛文十二年(1672)八月二十一日、公は自ら猪苗代に参られ見祢山に登って墓地を定め、「我が身はここに納めてくれ。」と家臣に命じられた。そして「万代と祝ひ来にけり会津山高天の原にすみかもとめて」と詠まれた。惟足はかたわらにあって、御歌に応えて「君ここに千歳の後のすみところニ葉の松は雲をしのがん」と詠じた。公はことのほか感じ入られて、帰城された。帰途公はこの年没した大老田中正玄の墓に立寄られた。 同年(1672)十二月十六日、江戸に戻られた公は容態すぐれず、老臣・友松氏興を病床にお呼びになり葬事奉行を命じられ、戸板真五郎を副役とし後のことを託された。同月十八日霊神ご逝去。そこで、友松氏興は公の遺命とおり神道の礼を尽くして見祢山に葬り、惟足を招いて葬事を行なわせた。 延宝元年(1673)、神祇管領長・吉田兼連がご神体ほ奉じて仮殿に安置した。この時より、壮大にも壮麗な神殿の営築を開始し、延宝三年(1675)八月十九日竣工。同二十三日正遷宮の式を行ないご神体ほ正殿に安鎮し、磐椅神社の末社とした。 土津神社は、神殿・回廊など奥日光又は東北の日光といわれるほど壮厳壮麗であったが、明治の戊辰の兵火で社殿がことごとく焼失した。今の社殿は明治(1880)七月の造営に成るものである。

神社入口

拝殿

本殿

境内の様子

数多い摂社

土津神社霊神之碑