阿邪詞根(あさかね)神社

郡山市大町2(平成17年10月10日)
        (平成18年5月14日追記)

この神社は郡山駅の北北西約500m、星総合病院の東に位置し、355号線に面して鎮座しています。案内によると御祭神の猿田毘古命は康平年中(1058〜1065)伊勢国阿坂より勧請し、道祖社と呼ばれていました。又、寛治3年(1089)源義家公の副将軍として、前九年・後三年の役に出征した平忠通公が配神として祀られ、御両宮のち御霊宮と改称しました。江戸時代には領主となった丹羽氏に尊崇され、寛政年間には御霊大明神の神号をいただきました。明治22年に現社名の阿邪詞根神社と改称しました。境内には「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」と呼ばれる大きな板碑がありますが、風化が激しく何も分かりませんでした。中が空洞になりながらも健気に葉を茂らせているご神木に感動し、去年いわき市などで良く見かけた福島型狛犬との再会を喜び、しばし至福の時を過ごしたのでした。

(昭和8年7月吉日建立)

社号標

旧参道入り口

「御霊宮」の額がかかった西入り口の鳥居。
測量基準の「不」の字が付けられています(載)。

ご神木

拝殿

本殿

福島県のかなり広範囲に点在する顔が横広で厳めしく、逞しい体つきの狛犬。毛がフサフサとして鬣が長く、阿は玉取、吽は親にそっくりな子取りの場合が多い。一見江戸風だが何処か素朴感が漂う狛犬です。

湯殿山、山神・月読命の文字碑

末社・山神社

石造浮彫阿弥陀三尊塔婆

【三重県在住の市川さんからの狛犬情報】
 私は今年の三月半ば頃、福島県郡山市の阿邪詞根神社を訪れ、その際の旅行記をまとめるため、公式ページでもないかと検索したらそちらのHPの、このページにたどりつきました。
 ページ上部の解説に、 〜境内には「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」と呼ばれる大きな板碑がありますが、風化が激しく何も分かりませんでした。〜とあり、最下部に石造浮彫阿弥陀三尊塔婆とした画像がありますが、これが誤りです。
 私も全く同じように、石造浮彫阿弥陀三尊塔だと思い、この方向から同じような写真を一生懸命撮って、「風化しててなんだかわからないな」と思いました。
 ところが、裏に回ってみると、勘違いだったことに気付きました。実は、石造浮彫阿弥陀三尊塔だと思って見ていたこれは、もう一つ境内にある文化財、石造法華曼荼羅供養塔の「裏側」だったんです。実際、本来の表側にはうっすらとですが、梵字の曼荼羅が確認できました。
 では、石造浮彫阿弥陀三尊塔はどれかというと、上述の石造法華曼荼羅供養塔の表側に、よりかかるようにして設置されていました。高さは説明板にもありましたが、1mもありません。風化はしてますが、阿弥陀三尊だと言われれば、「ああ、そうなんだ」とわかる程度ではあります。
 ちなみについでで送りました、最後の「不」の画像は、西入口の鳥居の付け根にあるものです。寛政年間(1790年頃)に「正一位御霊大明神」の神号を賜り、文政11年(1828)表参道の奥州街道沿いに『御霊宮』の鳥居が建立されました(現在は西口に移動されています)。そして時代は下り、明治9年東京・塩釜間の測量が行われた際に御霊宮の鳥居に測量基準の印として『不』が刻まれましたという歴史があります。

 人間の思いこみほど恐ろしいものはなく、私達は境内に向いていた「石造法華曼荼羅供養塔」を見付け、よく見えなかったせいもあり、これが「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」と思いこんでいたのでした。市川さんからのご指摘がなければ間違ったまま、一生そう思っていたことでしょう。
 それでは戴いた本物の「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」等ご覧ください。

「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」と
「石造法華曼荼羅供養塔」側面から

「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」柵外から

これが本当の「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」です。

「石造法華曼荼羅供養塔」遠景(裏側)と近くから(表側)。
それと分かればこの大きな円は曼荼羅のものでした。

西口鳥居下にある、測量基準の印として刻まれた『不』の文字。