鶴岡八幡神社

田川郡香春町中津原404 (平成25年12月22日)

東経130度50分56.12秒、北緯33度39分28.26秒に鎮座。

この神社は、香春町役場の北東1km程の辺り、香春町鏡山のなかの小さな山の頂に鎮座しております。

御祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫命

事蹟 応永5年(1398)正月17日、大内盛見、田川郡鶴岡八幡官有杜参事神宮寺ノ別当行璃披 縁起 (応永戦記より)

人王(皇?)76代近衛院の御字、仁平3年(1153)春、鎮西八郎この地を領するに及んで、相模国鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して、鶴岡と号す。続いて五寺一院の大伽藍48ケの堂舎を建てる、久寿元年(1154)宸筆の額を賜る。その額「鎮西鶴岡」と号す。 (当社の縁起より)

由来
仁平2年(1152)10月鎮西八郎為朝公が豊後国臼杵から勾金庄南大原、(現田川農林高等学校地域)の館に移りて、源氏の氏神である鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の御分霊を御勧請して奉斎するため、家臣尾張権守家任を新造の八幡宮造営の奉行と定め、阿蘇判官忠国に命じ先ず京都に上し近衛天皇の御許を受けて、鎌倉由井の郷に下り鶴ケ岡宮に参詣し幣帛、神楽を献じ神法に従い御神霊を請けて、時の本宮の宮司の次男 津守源盛義、御神霊を捧持し同年12月25日瀬戸の尾山(現上高野岩丸健次氏屋敷内と言い伝う)に安着す。
この時新造の御社殿完成せず、やむなく尾山に留まりて翌年正月11日、社殿を初め五寺一院48堂舎ことごとく竣功せしにより同月16日新宮に奉斎す。
この日為朝公は九州の諸大名高家、家臣を率いて参入し為朝公は拝殿に、その他は廻廊、釣殿にいずれも衣冠束帯で仕候す。総ての修法が終わって神霊を鎮め神楽を奏し舞楽の青海原と太平楽を修理大夫に奉納せしむ(此の時修理大夫が用いし翁面、鈴、為朝公の烏帽子、鏃と共に当社の宝物として現存す)一同拝賀を行い、馬場にて、流鏑馬、競馬を奉仕す。又、社僧群座して終日大盤(般?)若経を勤行する。
鎌倉本宮の神法に則り毎年10月新嘗の大祭、即ちホウハン祭を執行せしむ。(ホウハン祭は現在全く滅びてをります)
久寿元年(1154)3月勅使徳大寺中納言良房は命により、近衛天皇の御震(宸?)筆の「鎮西鶴岡若八幡宮」の勅額を持参して下伺(向?)される。為朝公これを拝受し掲げしむ。勅使神前に拝賀して大刀三振を奉納して同年4月2日京都に帰られる。
為朝公は当社を九州の源氏の氏神として甚だ篤く崇拝したが、其の後、保元の乱起りて東国に去る。後嫡子鶴王丸に阿蘇忠国を後見として附随せしめて当社を宇護せしも平治の頃天下乱れて当社も殆ど傾廃す。
文治2年(1186)春源義経公が平家追討の時、梶原源太景季を代参させ社殿を再建す。後源頼朝公は九州守護職に命じて社殿を修理せしむ。
建武2年(1335)、足利尊氏公、文中3年(1374)秋、代弊便細川武蔵守等は社殿に修造を加え神宝金銀を奉納す。
永禄4年(1561)6月大友義統が香春岳城攻略の時兵火にて社殿焼失、これを毛利元就公が直ちに復興す。天正15年(1587)夏、豊臣秀吉の九州討伐の時、再び炎上、慶長10年(1605)9月、藩主細川中務大輔藤高公これを再興。其後貞享2年(1685)8月藩主小笠原遠江守忠雄公、社殿を造営して深く崇拝する。
昭和41年(1966)小笠原公造営の社殿が不審火にて社殿焼失する。44年御氏子の赤誠により復興造営がなされる。
境内由緒書き より

境内より300m程南西に立つ一の鳥居

神額

二の鳥居

参道

玉乗りと言うより玉抱えか。拡大写真はこちら。
(大正7年(1918)7月建立)

入口

三の鳥居

大きな目と口の笑う狛犬。拡大写真はこちら。
(明治37年(1904)甲辰1月建立)

参道

境内

手水舎

拝殿

拝殿内部

本殿


石碑

裏参道入口

参道より見る一ノ岳

山頂が削り取られています。橋やビルの材料になったのでしょうか。この工場は現在操業していませんが、石灰石の採掘は続けられているようなので、何れ山は無くなるようです。

裏から見る一ノ岳