香取市山倉2347-1 (令和7年3月1日)
東経140度32分31.28秒、北緯35度47分14.31秒に鎮座。
【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
再訪です。手書きの御朱印を頂くのと、前回は鮭祭りで客も多く見落とした箇所も多かったので再訪しました。今回は前回忘れた拝殿前の狛犬の石工の確認が出来たので、取り敢えず目標達成ですね。この神社は鮭祭りで有名ですが、実は昔から東京の消防関係者から信仰の篤い神社だと知り、今までの認識を改めねばならない事態に発展してしまいました。道理で奉納物を見ると東京の消防関係者と千葉県外が多いのも納得出来ます。入口付近の若松屋旅館の宿泊者も殆どが東京の消防関係者だったそうで、消防関係者の信仰が篤かったのは、この神社が風の神様であり風邪の神様でもあったからだそうです。しかし火伏の神の愛宕神社なら理解出来るが、何故山倉大神だったのか不明です。風邪の神様の意味は鮭を食べると風邪をひき難くなるかららしい。
若松屋旅館の由緒
若松屋旅館の所有者の話では、信憑性は定かでは無いが建物は幕末とも明治時代からあったとも云われているそうですが、正確な旅館業を始めた時期は手前の和風旅館で大正五年だそうです。後から建て直した奥の洋風旅館は昭和一年〜二年の頃に営業を始めたそうで、正確な年は忘れたらしい。一番宿泊客の多い時期は四月の神楽が行われる時で、鮭祭りの時では無かったそうだ。神楽の時に来る客の殆どが東京からの消防関係者だったそうだが、成田駅から当時はまだ存在したバスでやって来たのだろうか?
何しろ、当時はバス会社が10社も存在したそうだ。旅館業は平成二年(1990)で辞めてしまったそうなので、かれこれ35年間も利用されない旅館でしたが室内は意外にまだ綺麗でした。
神社入口
神額
天明六年(1786)十一月吉日・常陸国新治郡柿岡村。奉納者は千葉県人かと思いきや、
常陸国新治郡柿岡村が奉納した鳥居。新治郡柿岡村は今の茨城県石岡市の西部。
和風若松屋旅館と講中札。掲げてある講中札は全て東京の消防関係者の札だそうで、
偶に欲しがる消防関係者も居るそうです。猿町は港区の白金猿町かな。
自作した外側の看板。外に置いてあったので、白アリによりボロボロだった自作の看板。
内部の看板。若松屋旅館ではなく若松家。
一階室内・割れた柱と床。柱のカバーは猫の爪とぎ防止だそうです。
階段と床。客はこの階段を上り二階で寛いだ。
大正時代頃・昭和初期。二階が客室で二階の廊下の造りが今とは異なる手摺付。また奥の旅館もこの頃は和風旅館だった。
大正から昭和初期の絵ハガキ
洋風若松屋旅館。昭和に入ると奥の旅館は外観だけ洋風に変化した。一見洋風だが、二階の客室は壁が白色の和風の室内だそうだ。
二の鳥居
昔の二の鳥居。白黒写真は100年程前と思うが、殆ど変化してない二の鳥居前。
参道左右の狛犬
(慶応元年(1865)乙丑11月吉日建立)
鮭の碑。玉垣に東京心力元講と彫られていて、これが非常に多い。
御神木
額殿
東京各区消防奉納額
奉納目録。額殿を明治四十二年に奉納したのが東京と横浜の心力元講と分かる。
奉納額。金龍亭の文字が読み取れる。女性の名前が非常に多いので、芸者さんかな?
昔の額殿。基礎の部分が現代の額殿とは異なる。
神楽殿
奉納額。東京市深川区東森下町の指物師が大正二年五月に奉納した額。
奉納額。東京市深川区と日本橋区の交心青物講とも友心青物講とも読める大正三年奉納の額。青物講とは青物市場関係者かな?
昔の狛犬と拝殿
今の拝殿。今は石灯篭が狛犬の横に移動している。
拝殿前の狛犬。明治32年に奉納された狛犬さん。アーカイブ香取遺産にも記載されている狛犬さんです。
芝新門前町(現 東京都港区) 石工 植田金治郎 鈴木悦造 刻 狛犬さんまで東京の石工でした。
向拝と拝殿内部。賽銭箱まで東京昭和講だった。
手水石
社務所
昔の社務所。杉の御神木だけ昔と変わらない。
御朱印。両開きの御朱印もありました。
石灯篭(石工 白鳥龍角)。佐原の白鳥石材のご先祖が手掛けた石灯篭。珍しく千葉県四街道御饌講の方が奉納した石灯篭だ。
本殿側面
左右の脇障子
安永9年(1780)子正月建立の疱瘡神と令和3年5月建立のコロナ神。
疱瘡神とコロナ神。
姥神様。千葉県では珍しい姥神様。これは奪衣婆と同じらしいが、老婆の姿はしていない。
髪塚。香取市の香取神宮、香取郡多古町本三倉の側高神社でも見られる髪塚だが、解説版まであるのはここだけ。
東京の消防組の寄付碑
道祖神。道祖神だけこれだけ並んでる光景は見たことない。
寛政五丑年(1793)建立と文政五午年(1822)建立の道祖神。
御神木