諏訪神社

市原市原田310(平成20年10月19日)

東経140度10分15.82秒、北緯35度23分46.61秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
この神社は、牛久から国道409号を茂原方面に2km程進めば右側に鳥居が見えます。

鶴舞まで行った帰りに同じ道を帰るのもつまらないので違う道を通ったところ、たまたま諏訪神社のある高台の方から歓声が聞こえてくるので見に行ったところ、子供相撲大会の閉会式をやっていました。その時は人も多く、写真撮影は程々にして帰宅。その後、土俵上の櫓がどうなってしまうのか気になり再訪することになりました。

御祭神 建御名方神
建御名方神は、父大国主命、母沼河比売命の皇子とされ、出雲朝廷最後の実力者剛力無双の神といわれた。大和朝廷との戦いの後、国を譲り、信濃の国(長野県)諏訪の海(諏訪湖)に定住し、開拓を始め、住民に農耕や養殖の業を伝え、五穀豊穣を祈らせる神となり諏訪大社の御祭神となる。

内田村諏訪神社の由緒と相撲の由来
 慶安4年(1651年)この地を治めた地頭伊丹播磨守康勝が幕府より由井正雪の叛乱を鎮圧せよとの命をうけ、信濃国諏訪大社に祈願し其の任を全うすることが出来た。当時播磨守は、三千石の旗本で旧内田小学校跡地がその陣屋である。播磨守は、先の治乱の功を奉謝し、領地内の原田字道上に大社の御分霊を勧請することを決め承應三年(1654年)起工し、明暦二年(1656年)社殿を完成させた。以来諏訪神社は、原田、宿、堀越、島田、市場、奥野、水澤、石川、江子田、安久谷、米澤、真谷、十二村(旧村)後に谷口を編入しその鎮守となる。
相撲の由来
播磨守は、建御名方神の剛力武勇にあやかり神社創建を機に、境内に土俵をつくり力自慢を奨励し、相撲を奉納し、以来諏訪神社の相撲は伝統行事として継承され、秋の祭礼に奉納されるようになった。最況時には旧内田村を境に東西に分かれ、東は長生、銚子方面から、西は千葉、船橋方面から力自慢の素人力士が参加し、熱戦が繰り広げられ観客は境内に溢れ盛況を極めた。秋の祭礼は昨今まで九月二十七日に行われていたが、社会情勢、諸般の事情により平成九年氏子総代、町会長の協議により九月最終日曜日と決定し「諏訪の子相
撲大会」として発展し伝統を継承している。
(相撲は、元々神楽などと同じように、神々を慰労し、神徳に感謝する行事である)
以上案内板による。全文はこちら。

管理人の一言
神社の境内に土俵を見る事がままあります。相撲は国技と言われているので、当麻蹶速と野見宿禰以来、神代の昔から行われていたように思っていました。しかし多くの神社にある土俵は昭和の時代に子供達の体格向上、国威発揚のため国技の相撲を盛んにしなければならない、という国策に基づいて造られたようです。国家総動員法が公布された翌年の昭和14年5月、(財)大日本相撲協会(日本相撲協会の前身)は竹下勇海軍大将を新会長に迎えた。つまり相撲が正式に軍政下におかれ、その推戴式は国技館の土俵で行われたようです。そして学校では相撲が「正科」として取り入れられ、全国各地の神社では土俵が築かれ、神への奉納から大和魂鍛錬の場へと変質させられたのです。しかし、この神社の相撲はそれよりずっと古い由緒があるようです。何時までも伝統を護っていって欲しいと思います。

平成29年10月「狛犬小僧」さんより追加情報を頂きました。
新たな狛犬さんが鎮座していたので報告することにしました。中華風で余り見かけないタイプの狛犬さんです。
と言うわけでその中華風狛犬を追加しました。

神社入り口。右側にバス停のある入り口で、ここから100m程で階段となります。

新しい狛犬

中華風狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

参道。何も書いてない石が左右に。何処かに何か書いてあるのかも。

子供と狛犬

子供相撲大会閉会式 飽きた子供たち
足洗い 組み立て式土俵

境内入口の江戸尾立。明和生まれですが、保存状態も良く、素晴しい狛犬です。拡大写真はこちら。

(明和3年(1766)9月吉日建立)

拝殿

拝殿彫刻

手水鉢