我孫子市日秀(ひびり)131 (令和7年8月28日)
東経140度05分27.65秒、北緯35度51分29.97秒に鎮座。
【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
成田線湖北駅から東南に1.5km程の高台に鎮座。近くに県立湖北支援学校あり。郵便ポストに似た形状の賽銭箱が鎮座する神社ですが、残念ながら狛犬さんは居ませんでした。
御祭神 平将門公
由緒
大正9(1920)年に発行された『湖北村誌』に依れば、「日秀村産土にして、 創立年代は明かならされ共、傳ふる處によれは天慶3年(平將門)公の戦没するに遭ふや、其の遺臣等嘗て公が手賀村布施明神下(現在の柏布瀬近辺)より手賀沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登りて馬を繋き、旭日朝天を拝せし地域に於て一宇(お堂・祠)を奉祠し、公の御霊を迎へし」(原文ママ・括弧内補足)というのが將門神社の起こりとされています。元は將門社とされていましたが、明治42(1909)年に將門神社へと改称されました。
この将門神社を始めとして、我孫子市、特に日秀地区には平将門伝承が色濃く遺されており、将門の井戸もその一つです。将門の井戸は将門神社のある台地を南東に下りたところにあり、地面をすり鉢状に掘り下げた底の部分を垂直に掘り下げる「まいまい(ず)井戸」と呼ばれる形状のものです。
現在の我孫子市域はかつて下総国相馬郡に属していましたが、「將門の乱」の経過を記したとされる『將門記』には、「相馬郡大井津を以て号して京の大津と為さん」という一文があり、「將門の乱」の影響が相馬郡にまで及んでいたことを示唆しています。
日秀地区では、「神となった平將門公の威徳によって、豊かで、平穏な村が守られてきた」と伝わり、現在でも「平將門公」として崇敬の対象となっています。
令和六(二〇二四)年二月 我孫子市教育委員会
日秀では、天慶三年(九四〇)に戦没した平将門の霊が、遺臣たちとともに、明神下から日秀まで手賀沼を騎馬で渡り、沼のほとりの岡で朝日の昇るのを拝したといい伝えている。そして、その伝説の地に一宇を建てて霊をまつり、鎮守としたのが当社のおこりであるという。
昭和三十年に石造の社殿に改められた。それが現在の社殿で、切石積の二重基壇を高く築き、石祠を安置する。石祠は、切妻造の正面の屋根を一部葺下げて向拝とし、身舎の床面より一段低い浜床に相当する平板石の面に、石柱の向拝柱をたてている。
鳥居について「湖北村誌」には「今尚木造の華表(鳥居)に七五三縄を張り渡して」とあって、大正時代には木造鳥居であった。それが石造の稲荷鳥居(台輪鳥居)に建て替えられ、柱の根本の部分は根巻になっている。
なお、当社には天保六年(一八三五)に調進された「奉納将門大明神」と染めた幟が伝承されている。
(「我孫子市史」より)
社号標と入口。神社はここから150m程の位置に鎮座。
鳥居
神額(平将門は、中央の朝廷に反旗を翻して新皇宣言をしたことから、「平親王将門」としている。)・出羽三山参拝記念碑
伊勢参宮記念碑
石祠
境内
石灯籠・明治廿三年奉納
神門
揚羽蝶紋(平将門の家紋の一つ。柏市岩井の将門神社には揚羽蝶紋は付いて無かった)
奉鎮祭棟札(奉鎮祭は、完成した建物を祓い清め、末永く安全堅固であることと、その建物の繁栄を祈願するお祭りです。おまつりする神さまは、上棟祭の場合と同じで、その土地の守り神・氏神さまである「産土大神(うぶすなのおおかみ)」、家屋の守り神である「屋船久久遅神(やふねくくのちのかみ)・屋船豊受姫神(やふねとようけひめのかみ)」、工匠(大工)の守り神である「手置帆負神(たおきほおいのかみ)・彦狭知神(ひこさしりのかみ)」をおまつりします)
御神木
社殿
石宮(昭和三十年四月建立)
賽銭箱・揚羽蝶紋
稲荷神社・天照皇大神宮・三峯神社
御神木