熊野奥照神社

弘前市田町4-1-1 (平成21年7月22日)

東経140度29分0.53秒、北緯40度36分35.75秒に鎮座。

この神社は、弘前駅の東北東1.2km程の辺り、弘前の街中に鎮座しております。この神社にも、弘前八幡宮目屋桜庭多賀神社と同じく、市指定文化財の笏谷狛犬が有るとの情報を得てはるばる訪ねてまいりました。

御祭神 伊邪那岐神・伊邪那美神
例祭日 七月十五日
由緒
本神社は、崇神天皇(西暦紀元前八五年)の創立と云われ、斉明天皇(西暦六五八年)の時阿部比羅天がこの神社を崇敬し、熊野三所大権現を奉った。その後桓武天皇延暦七年の時、当弘前の地に遷座したのが始まりで、延暦二十一年に高岡熊野神社と社名を変更し、更には明治十三年熊野奥照神社と改称し、現在氏子崇敬者の尊崇の中心をなしている。現在の社殿は、慶長十八年津軽第二代藩主信牧公の再建によるもので、三間社流造り、屋根こけら葺、素木造りの構造で、本建物は、手狭、蟇股、桁隠し、舟肘木の面取等の曲線がよく、慶長年間の特色を十分現し、かつ柱上は舟肘木等の全体に亘り端正簡素な手法からなるもので、本州北端の地に保存されている事は極めて稀であると、日本建築学会に於て評価されている。昭和二十九年国重要文化財の指定を受ける。
青森県神社庁公式サイトより。

熊野奥照神社 概要
由緒
当神社は、今(昭和五十二年)から約千百八十九年前崇神天皇六十七年の創立にして斉明天皇四年、阿部比羅夫がこれを崇敬し、その副使、物部安麿が東夷を征せんとして津軽に来て奇瑞を得て小田山の下に社を建て熊野三所大権現を崇敬したが桓武天皇延暦七年比羅夫の子孫比羅賀洲王が神輿を奉じて奥尾崎(今の北津軽郡小泊附近)より扇野庄(今の弘前)に遷し奉ったのが鎮座した始めと伝えられている。延暦二十一年桓武天皇神殿を新に造立して高岡神社と称し、同二十四年陸奥国高岡熊野神社と称した。当神社本殿は、慶長十八年第二藩主津軽信牧公の再建にかかるものであるが「天正十六年六月為信殿修覆、同十七年五月下乗下馬修補」とあるのを以って、旧藩津軽氏が崇敬した始めと見られる。
その後明治十三年阿部比羅夫、坂上田村麿両将軍の神霊も合祀して熊野奥照神と改称し今日に至っている。
祭神、伊邪那岐伊邪那美命、櫛御気野命、事解男命、速玉男命
相殿祭神、高皇産霊神、神皇産霊神
境内由緒書より。原文はこちら。

人皇第10代、崇神天皇時代の創建と言われるが、境内由緒書の約千百八十九年前創立は計算が合いません。伝説的な程古い話なのでこだわる必要もないのですが。文字を知らない当時、どのような記録があったのでしょうか。

神社入り口と社号標

二の鳥居と境内

拝殿

本殿入り口。ここに来る道すがら、我が愚妻が「掃除のおばさんにお願いすれば入れてくれるみたいよ・・・」と言っていたのですが、ちょうど掃除をしているおばさんにお話しると「どうぞ」といって案内してくれるではありませんか。噂は本当だったようです。

本殿正面。お目当ての笏谷狛犬は他と違い、野ざらしで置かれています。

堂々とした、本家福井県の笏谷狛犬を凌駕する狛犬です。拡大写真はこちら。

市指定有形文化財 石造狛犬一対
 狛犬は、木、金属、石等で作られ、二基一対で社寺の拝殿前などに魔除けのために置かれたものである。市内には寛文四年(1664)奉納の狛犬が三対存在し、いずれも石質・形状・法量が酷似しているため、同一工房において造られたと思われる。しかし、石材が当地方産でないことから、日本海航路で搬入されたものと推定されている。原文はこちら。

(寛文4年(1664)9月吉日建立)

重要文化 財熊野奥照神社本殿 一棟
当神社は、社伝によれば、小泊村付近に創建され、延暦七年(788)には現在の弘前の一角に創建されていたという。
この本殿は、弘前城築城に際し慶長十八年(1612)に信枚が復興造営したものという。構造は、三間社流造、平入り、屋根は柿葺、全体を白木造とし、当市の建造物では棟札で確認できる最古の建物である。原文はこちら。

稲荷神社

庚申塔 猿田彦大神

筆塚

板碑一基
この板碑は建武元年この地方に蜂起した武家方の一武将であった、工藤六郎入道道光の没後五十七日忌にあたって其の菩提を金剛界五仏に託した供養塔婆である。