羽黒神社

弘前市宮地 (平成21年7月21日)

東経140度23分21.08秒、北緯40度36分45.4秒に鎮座。

この神社は、弘前市の北5km程の辺り、百沢街道が3号線より分かれてすぐに神社前バス停があります。そこから左手に案内に従って行くと、どん詰まりに鎮座しております。

御祭神 倉稲魂命・大己貴命・水波能女命・大山祇神
例祭日 旧六月二日
由緒
大同二年人皇五十一代平城天皇の御宇坂上田村麿将軍鬼神退治の為当國へ御下向の砌愛宕の南姥姑林と申す所に御陣屋をとらせ給う時生憎眼病を患い一時作戦停滞し日夜辛吟し給える時に或夜霊夢にて「これより西方の山腹に清水の湧出す所ありそれにて眼を洗うときは必ず癒えん。」と即ち部下に探索申しつけたるに果せるかな泉あり。将軍礼拝をなしこれにて両眼を洗い旬日にして平癒し給い悉く鬼神を退治し御凱陣の折奉賽の祠を建立せりという。其後願主間宮氏山口氏森岡氏全備中守兼平伊豆守改築を重ね特に天明の飢饉に改築が行われており信仰の篤さを窮い知ることができる。爾来眼病の参拝者が多く眼病平癒した者数知れず東北、北海道に信者が多い。現在青森県名水の指定をうけ健康飲料としての利用者も多い。
青森県神社庁公式サイトより。

羽黒神社
御祭神:倉稲魂大神・大己貴大神・水波能売大神
由緒沿革
当神社は、昔から「羽黒さま」「目の神さま」と親しんで呼ばれ、信仰されて参りました。
大同二年(807)坂上田村麿が蝦夷討伐のみぎり眼病を患い霊夢によりこの泉を探しあて洗眼平癒したお礼に建立したと伝えられ、古来霊泉で眼病平癒した人は数知らず広く県内・秋田県・北海道の信者から信仰されています。又、この霊泉は「名水」として認定され、お茶がおいしく健康飲料としても珍重されます。
境内由緒書より。

 当社は人皇五十一代平城天皇の御代大同二年(807)坂上田村麻呂蝦夷征伐の折り、眼病平癒を報賽して創建される。明治初年まで出羽・羽黒修験真言崇(宗?)「羽黒大権現」として尊崇され、郡中第二位の群集所で神仏混淆であったが、明治六年神仏分離令により村社「羽黒神社」となる。
 日本では古来より山岳を祖霊の住む処と神聖視し、また農耕を守ってくれる水分神として尊崇して来た。当社の祭神が農業の豊穣を守る倉稲魂命であることと、社地内に霊泉の湧水のあることがそれを窺わせ、古くからの信仰を証するものである。
 当神社は県内各地の「羽黒様」の総本山の位置にあり、古い文書に度々の本殿改築の記録が見られるが、その中には天明四年の大飢饉の中での改築の記録があり、当社が郡内外の崇敬を深く集めていたことを物語る。現在の本殿は彩色がほどこされ、町内に於いては数少ないものと言われる。また霊泉は「羽黒様の清水」と親しまれ、眼病に霊験あらたかとされ、古くはその治癒を願う人が後を絶たず、近年まではその人達の為の行者小屋もあって、旧暦六月二日の祭礼には大きな信仰の場をなしていた。
 また文明年中、岩木川氾濫による洪水防止の難工事に自ら人柱となった当社家川崎権太夫の生涯は村民の大きな尊崇を生み、杭止神社の水神として祀るところとなり、後々までも語り継ぐべきものとなっている。
岩木町教育委員会

由緒書と教育委員会説明の原文はこちら。

現在では信仰より名水を求めて皆さんやって来るようです。駐車場には何台かの車が止まっていましたが、皆さんポリタンク持参で参拝もそこそこに、名水汲みにはげんでおりました。

参道入り口に建つ一の鳥居と社号標

二の鳥居

参道

三の鳥居

拝殿と本殿

津軽にはユニークな狛犬が多いが、これは極め付きかも。拡大写真はこちら。

(明治20年(1887)6月2日建立)

拝殿内部

霊泉は社殿右手にあります。霊泉入り口

霊泉は眼病に霊験あらたかだそうです。我が愚妻も水汲みに来ていたご夫婦の勧めで目を洗ったところ、衰えた視力が回復したと言っています。恐るべし、霊泉の神威!。

やまのかみさま・あかくらさま 辰年巳年生まれの一代さま
音楽芸能の守護神
やくしさま いなりさま

天照皇太神碑