白山宮

八戸市沢里上沢内 (令和6年7月29日)

東経141度28分34.96秒、北緯40度29分30.50秒に鎮座。

この神社は、八戸自動車道・八戸ICの東800m程の辺り、上沢内の街中に鎮座しております。

御祭神 伊邪那岐尊、伊邪那美尊、菊理媛尊

由緒
草創は鎌倉時代、亀山天皇、文永の頃(1264-1274)越前の国の七つの峰の住人霊峰加賀の白山に登り参籠。7日7夜にして霊験を得、当山(奥州南部八戸縣糠部郡根城の南西に沢里と云う山あり:現古宮)に勧請、白山に鎮座、白山様と敬われる。室町、安土桃山、江戸時代と星霜幾年を経、御水尾天皇、寛永4年(1627)根城南部家遠野へ国替えとなり、後西天皇、寛文4年(1664)八戸南部家創設となる間、来歴知る人無く往昔松杉も倒れ朽ち失せて山荒れ谷水絶へて参詣の人気も少なければ蛍燈をかかげ、露香を燻へて狐狼の外に又かつぐ者なし。時に八戸縣の住人、高橋吉左衛門(後の大和守藤原正久)不測の霊瑞を蒙り、霊元天皇、貞享元年(1684)白山社を再興す。更に東山天皇、元禄7年4月8日(1694)八戸城下の御助請を頂き新築・遷宮(第2回目:現在地)その後、総領元亭古障ありて跡を継がず、孫、式大夫上京、卜部家吉田神道より三檀十八の神式を授かり神主の号を許され祖父の名を改めず大和守藤原正方と名乗る。中御門天皇、享保12年(1727)社殿修復、神徳を広め諸人の信心の助力により、享保16年4月5日(1731)神祇官領、当長上、正二位、卜部朝臣兼敬卿より正一位の御神階を奉授、宗源の宣旨極意の神宣により正一位白山宮となる(草創より460余年)。
大和守藤原正方、思想家、安藤昌益の門下弟子となり、桃園天皇、宝暦7年9月7日(1757)仙台領亀岡八幡宮へ倅、式大夫を勉学の為連れ八戸南部藩を出る。そのまま帰らず正一位白山宮宮司不在となり、翌宝暦8年戌寅(1758)御改め、立合役人、寺社奉行、吉岡権蔵、御勘定所、玉井平蔵他御山目付、御代官、御山奉行、御勘定方、連名にて白山宮境内検地、御改絵図弐枚を記し、正一位白山宮社職を弟権太夫に引き継ぐ。仁孝天皇、天保2年(1831)社殿移設、新築遷宮(第3回目:南に約百米の地)弘化4年(1847)社修復、大正15年(1926)新築遷宮(第4回目:現在地に戻る)平成19年8月29日増改築(2007)竣工式、斎行、現在に至る。
境内由緒書き より。

参道入口

参道

境内入口

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

社殿

社殿内部


稲荷神社鳥居

稲荷神社社殿