日本初の歴史書「日本書紀」に、秋田の地名が「齶田(アギタ)」と出てきます。「齶」とは顔の顎のことで、半島が突き出した秋田湾の形が顎の形に似ていたことからつけられたということです。7世紀の中ごろ阿部比羅夫(あべの ひらぶ)が180艘の水軍を率いてやって来た頃のことです。その後、まもなくアギタは「飽田」に書きかえられます。「飽田」は、低湿地を意味する悪土などからきた悪田から生まれた地名とも言われています。また一説によると、「アキタ」は「アイタ」が変化して「アキタ」となったといわれ「アイ」は湧水、「タ」は地域を表わすことばで、湧水の多い湿地帯を意味しているともいわれています。
現在使われている「秋田」の文字が歴史にあらわれたのは、和銅5年(712)に出羽国が置かれたのが最初です。
その後、室町・戦国時代には安東氏(秋田氏)の支配下に置かれ、慶長7年(1602)には、佐竹義宣が常陸(茨城県)から出羽秋田に国替えを命ぜられ、久保田城(いまの千秋公園)を築きました。
武士による封建制が崩れた明治4年には、廃藩置県により、亀田、矢島、岩崎、本荘、秋田の5県と、江刺県の鹿角郡をあわせて現在の秋田県が誕生しました。
県の花はふきのとう、県木は美しい木目と強い材質が特長で、日本三大美林の一つに数えられている秋田杉です。竿灯祭り(秋田)、なまはげ(男鹿)、かまくら祭り(横手)などの盛大なお祭りは全国的に有名で、美味しい物には
きりたんぽ、はたはた鍋、しょっつる鍋などが郷土料理 としてあり、 大館曲わっぱ、樺細工、とんぶり、稲庭うどんなどが特産物お土産品のようです。
また余談ですが、秋田というと小野小町を代表とする色白の美人王国として知られていますが、日照時間が短く、冬の間の湿度が高い秋田特有の気候が肌を保護し、白くすべすべにしているとの気候説、秋田の水が酸性の為、肌を滑らかに白くしているとの生活水説、ロシアのコーカサス地域の人達が乗っていた難破船が秋田に漂着し住み着いたというロシア人とのハーフ説、佐竹義宣公が常陸(茨城県)から出羽秋田に国替えを命ぜられた時に、美人を皆引き連れていってしまった(茨城のおじちゃん曰く)などの諸説があるようです。(「秋田の味の玉手箱」参照)
秋田を初めて訪れました。江戸時代の狛犬がゾロゾロ。秋田の石は硬いのでしょうか、保存状態が極めて良いと思います。又既製品の昭和岡崎が少ないのも好感がもてます。
秋田市河辺戸島七曲の神明社拝殿の四隅を支える力士像