八幡秋田神社

秋田市千秋公園1−8(平成18年7月25日)

 この神社は久保田城跡・現千秋公園内に鎮座しています。
 御祭神は品陀別命、息長帯姫命、比賣神、佐竹義宣朝臣、佐竹義和朝臣、佐竹義尭朝臣、相殿に倉稲魂命、猿田彦命、大宮賣命、武甕槌命、倉稲魂神です。
 由緒:八幡神社は茨城の太田城に創建した佐竹家の氏神を久保田城内三の丸八幡山に遷座し、江戸時代は佐竹家の氏神様でした。これを明治32年本丸へ遷し、明治40年には初代藩主・佐竹義宣公、九代藩主義和公、十二代藩主義堯公を祀る秋田神社を合併、八幡秋田神社と改称し、内町(武士の町)の総鎮守となりました。本殿は天保三年(1832)建立で秋田県有形文化財でした。拝殿は明治三十二年以降の建築、両社とも豊富な彫刻が施された立派な建物でした。
 ここで何故過去形を使ったかというと、2005年(平成17年)1月9日早朝、賽銭を盗もうと八幡秋田神社に侵入した泥棒が、賽銭箱に鍵が掛かっていたのに腹を立て社殿に放火。拝殿は全焼して崩れ落ち、本殿も右半分が僅かに形を残している、という状態になってしまったのです。秋田地裁の判決では、この放火男に懲役9年の刑が言い渡されています。けれど一度失った文化財の歴史的・文化的価値、市民の落胆は、決して再建によっては戻らないのではないでしょうか。悔しいです。
 久保田城は常陸国から秋田に転封された、源氏の流れをくむ名門・佐竹義宣公により慶長8年(1603)に神明山(現在の千秋公園)に新たに城が築かれたものです。神明山は3つの高地からなる標高40mの起伏のある台地で三森山とも呼ばれていたそうです。本丸は最も高いところを削平や土盛をして造られました。秋田転封後の石高は20万石と常陸時代の半分以下になりましたが、佐竹氏は明治まで秋田を治めました。そして明治時代になり、廃藩置県により、久保田城跡は千秋公園として整備されたのです。

久保田城跡碑 城内の様子
城内の大ケヤキ 神社入口
社務所が仮宮になっていました 秋田というと、子供が隠れる位の大フキが、
何処にでも生えているのかと思っていましたが、
結局ここでしか見られませんでした。